これには既に桟橋が描かれている。
「江島名所図絵」によると、前年に鎌倉・江島編を臨時増刊したが好評を
博したが、江の島は竜頭蛇尾で記者は遺憾に思い、鵠沼地方に逗子、金沢を付加して
再発刊・・・とある。
●東京から江の島へは、藤沢停車場で下車(新橋より里数32里31鎖、3等車で32銭、
2等車64銭、1等車96銭)。
藤沢停車場からは人力車で砂に車輪をとられながら片瀬村の洲の鼻まで。
そして行李は車夫に委ねて共に江の島へ。
●片瀬川は<固瀬川>と呼ぶ時代があった。江の島の江は柄、荏、榎、繪、畫とあり詩人
は好んで繪島、畫島とし...た。
●江の島は「新編相模國風土記」によると欽明帝13年4月10日(~23日)の大地震で海上
より湧出した、とある。
●壽永元年に初めて源頼朝が弁財天を窟(岩屋)中に勸請してから衆人が行くように
なった、と。
●江島神社は知ってのとおりですが、多紀理毘賣命(タキリヒメノミコト)、布寸島比賣命
(イチキシマヒメノミコト)、多岐都比賣命(タキツヒメノミコト)の三神がそれぞれ邊津神社、中津神社、
奥津神社に祀られている。
●その昔は「辨財社」といい金亀山與願寺と号し、わが国の三辨天(厳島、竹生島)に称さ
れた。
●また邊津神社の傍らには八坂神社があり7月13、14日には祭礼があり、島の東西ふた
手に別れ囃す習わし。・・・・・・・・・・・・・・
●岩本楼 一の鳥居を過ぎて、右にある旅館をいう。昔は岩本院と号し、一山の総別当職
を勤め、江の島に遊ぶものは必ずこの院に宿す。いずれの旅館も絶美なるも、富岳を
のぞむは当楼を第一とす。遠くは烏帽子岩を中にして,右に大礒より箱根の霞の間に眺め、
洗い出たる富士の根は、静かに扶桑の美を収めて、高く雲表に傑出し、淡あいかすかに裾
を罩めて空の臭いと深し。この室を望嶽亭と題す、と。
●鵠沼の鵠はクグイヌマの略で風土記に正しくは「久久比奴末」と訓せりとある。クグイは
白鳥、だという。
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