2010年12月17日金曜日

考えさせられた「生き抜く 小野田寛郎」

昨晩NHKhiで戸井十月との対談構成の番組「生き抜く 小野田寛郎」
(初回OAは2005年5月24日)の再放送に偶然ぶち当たった。

今現在も、自分の人生をあくまでも完結しようと闘っている姿に感動を
覚えた。

17歳で父親との諍いで家を飛び出て、中国武漢で商社マンになり、
その後中国語と英語が話せるということで陸軍中野学校に呼び寄せら
れ徹底的に情報将校としての軍務を叩きこまれ、1944年にフィリピン
(ルバング島)に着任。この時上官だった横山中将から「玉砕だけは
まかりならぬ…」との命を受けていた。


終戦後も友軍の来援を信じ持久戦に徹し、何回もの投降の呼びかけに
も決して応じず(実兄にも)、仲間の戦友を次々に亡くし孤独に苛まれる
とき、
1974年に一民間人青年鈴木紀夫の呼びかけが接触に成功し、敗北の
歴史と現状を説明されたが、直属の上官の命令解除を要求した。一ヶ月
後再度鈴木を含む派遣員がその任務解除・帰国命令を携え行き、入隊
着任後30年の歳月を経て、ようやく投降に応じた。


そして、帰国を果たしたが、一般国民から寄せられた寄付金のすべてを
戦死した友のためにと靖国神社に寄付したことが物議を呼んだり、マスコ
ミの虚偽報道等に変貌著しい日本社会に馴染めず(嫌悪を覚え?)、
次兄のいるブラジルに移住を決意し、友人から借り受けた資金をもとに
ブラジル中西部にゼロから小野田牧場を拓いた。


そして帰国後結婚した妻町枝さんとともに苦労の末、10年後には牧場経営
を成功させた。


その後、川崎での少年による親を金属バットで殺人した事件を知り、「祖国
のため健全な日本人を育成したい」と、サバイバル塾「小野田自然塾」
主宰し現在にいたる…、ということだが





番組での戸井十月の肩に力が入らぬインタビューは、視聴者が聞きたい
話をストレートに投げかけ、それに歯に衣を着せない適格な応えには一本
強い筋の通った精神を窺い知ることができた。

5年前の出演当時83歳の小野田さんの目は常に相手を直視し、実に自分の
意志で生きてきたという自負心と自信に満ちていた。
話は一貫していて終始全くブレがない。
なお且つ終始の笑顔で。

・誰が悪いんじゃない。時代が悪かっただけ。
・(軍国主義の亡霊とまで言われるが)戦前には人は何と言って兵士を送り
出したか。新聞には何と書かれていたか。
・戦友の死を悼んで、頂いたお金を靖国神社に寄付して何処が悪いのか。
・終ったことにくよくよしていたら、前には進めない。
・青春は(短かったが)先取りして楽しんでおいた。
・すべてルバング島で強くなった。
・兵はすべて上官の命令で動くのが当然。
・銃を持つ敵に遠慮することはない。自分が生きるためには。
・手持ちの銃の性能からいって、至近距離で射止めなければ弾が無駄になる。
・気の毒なのは(私じゃなく)死んでいった人たちだ。
・本能的に死にたくないから、努力をする。
・自分の故国はどこか。日本には17年余りしかいなかったのだから…。
・今はどこで死んでもいい。もちろんここブラジルでも…。
・子は親と合わなければ、家を出よ。それが双方の幸せを呼ぶことだ。
いつまでも我慢して一緒にいるから悲劇を呼ぶ。
・子供は親が教育しないとダメ。子は親を見て育つ。
・自立できる子をつくれ。
・目標に近づくには、余計なものを如何に排除していくかだ。
・どんな時代や状況でも、生きて行く強さを持つこと。
・危うい日本だが、この地球がなくなるまで継続させたい。


生き抜くために、自分とも闘う不屈の精神、そしてその持続は
あの戦火の時と非常な孤独のルバングを経てきたものなのか。

日本の地で稀有なサムライとして安住してしまう道もあっただろ
うが。
敢えて前しか見ないひとだったのか。根っからだったのか。


それにしても、帰国後の当時の故田中角栄首相との2ショット、
田中の膝組んで相手の顔も見ない厚顔さと、高度成長下で
浮かれている日本を睨みつけるような小野田さんの素振りは
印象的なショットだった。

The Real Last SAMURAI とまで言われているが、
ご本人は、民主主義者で自由主義者だと言っている。

現在88歳で、まだ生きることの尊さを伝え続けている。

0 件のコメント:

コメントを投稿