目的はふたつ。
ひとつは慢性腰痛対策。もうひとつはいつか来る親の最期に
際して平静を保って送りたいと思っていたからだ。
前者はその教室で習ったセオリーを教室を止めてからもアレン
ジして、今でも毎朝1時間以上かけて一日のはじめに意念を
込め生きている証(大袈裟か)を確かめようと続けている…。
この3月から、9月のKonaレース(通称)に向け今までとは比べ
ものにならないくらい練習をしている。
そのため、腰への負担も相当なもののはずなのに、いままで
最低月に一回は行っていたマッサージにも行かずにここ5カ月
近く快調でいる。
すこしはましな漕ぎ方に近づけたのか、コツが分かってきたのか。
しかし、30㌔、3時間以上を漕げるという、体力的にも精神力に
未経験のままで、未だ何の確証を掴めてはいない。
恐らく掴めないまま本番を迎えることになるだろう。
クラブの代表に勧められたからとはいえ、何故出ることになった
のか。
おまけに自分自身には軽いとはいえ心臓弁膜症があり、負荷を
かけることがこの歳で決して将来に良いわけがないのが分かっ
ていてだ。でも、それも恐らくだ。
映画「ガイア・シンフォニー」の作者、監督の龍村仁さんが著書
「地球(ガイア)のささやき」の中で、「運を天に任せる」ということば
の本来の意味を語っていた。
『こんな言葉は誰もが知っている。しかし真に天に任せることの
できるひとはどれほどいるだろうか。
特に日本人のように〝高度〝に進歩した技術社会を享受し、
〝整然〝と制度化された社会秩序の中で生活している者たちに
とっては、自分の人生は自分の力で選びとっていると、思ってい
るか、あるいは誰かのせいでこうなっていると思っている。(中略)
現代の日本のような環境の中で生きていると、どうしても生きて
いること自体が〝人為〝のなせる業だと無意識のうちに思って
しまう。
真の意味で運を天に任せることができなくなるのだ。
別の言い方をするなら、生かされている、ということが実感でき
なくなるのだ。
その点、標高3,000mを越えるヒマラヤ山脈の過酷な自然の中
に生きる人にとっては、まだ生かされている、ということが日々の
生活の実感として存在しているようだし、チベット密教の高度に
洗練された心の科学も、このような環境の中で練り上げられ、深
められて来たのだ、ということができる。』 と…。
もうひとつの話を思い出した。
もう10年近く前になる。日本人は太陽を愛でて手を合わせて拝む
ということがある。
現代文明に対して、叫びに似た警鐘鳴らし続けるネイティブ・アメ
リカンのグレイト・スピリット(神霊)を扱ったTV番組だった
レポーターの日本人の音楽家ははなからこの種の話には半信半
疑であったが、彼らの霊的な世界を体験した後、最後のシーンで、
未明に荒野の中の山の頂に導かれ、昇りくる太陽の方向に向かっ
て立たされた。やがて赤々と輝く朝日が昇る。
レポーターの音楽家は微動だにせず極く自然に合掌し、しばらくして
瞑想状態に入った。
そして最後に彼の背後でじっと静かに見守っていたネイティブ・アメリ
カンの大きな胸に抱かれて、その感動を共有した。
その上に彼の目には止めどなく涙が溢れていた。
もちろんこの特別な環境での特別な体験がその感動をもたらせたこと
は確かだろう。
しかし、それよりもっと根源的でシンプルなグレイト・スピリットを感じた
からだこそと僕は信じたい。
このような素晴らしい「人間と宇宙の根源的な世界」をいつも感じられた
らいいのだが…、なかなかそうはいかない。
しかし、僕たちが今回ハワイイで体験できることは、極く人為的なことで
あるかもしれないが、神を崇めて、畏敬の念を抱きながら、未知の世界
に挑んだ、ポリネシアンのスピリットの一端を感じたいと思ったからかも
しれない。
僕たちは恐らく、なけなしの体力を使っても、きっと感動はある!と…。
あとは天にお任せする。
きょうは台風も来て、すこし自然を感じたし、
それより、すこし酒を飲み過ぎたか。
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