2010年11月2日火曜日

記憶の薄れぬ間に…。

下の図の南側の池の付近から見た方向。
腰をか屈めて俯き加減の幼少の僕。




我が家は祖母が浅草で震災に合い、東京はもう怖くて住めない
といって鵠沼に移り住んできた。
当初はいまでいう鵠沼海岸7丁目の熊倉通りの終点、高根のバ
ス停の奥に二階家の日本家屋建てた。

しかし、商店街が徐々に伸びて来る気配を感じてもっと静かなと
ころへと言うことで10年もしないうちに今の松が岡にまた総檜の
平屋の日本家屋を新築した。
ここに移って約75年、僕で3代目になる。

ちょうど小田急鵠沼海岸駅にも江ノ電鵠沼駅にも10分以内の
距離と言うことで決めたようだ。

当時はこの界隈は1ブロックに1軒家があるかないかで、現に
我が家の東のお向かいのT家のお屋敷は約3,000坪は優に
越えた敷地であった。

当時のT家は南側に平屋の大きな日本家屋の母屋と北側には
瀟洒な洋館(今も現存)があり、この間に芝生を敷き詰めた広い
庭に時々忍び込んで遊ばせてもらっていた。

なので、200坪程度では、この界隈では恥ずかしいくらい小さな
家であったことは確かだ。

僕が小学校に入っても、トイレはくみ取りだったし、水道はまだな
く井戸水をタンクに満杯に汲み上げるのは僕の役目であった。

風呂はしばらく五右衛門風呂で焚口に薪や石炭をくべて焚くわけ
で、庭掃除や近くの林で着火用の小枝を集めるのも役目だった。

家は回り廊下で南側が8枚、西側に6枚の戸があり、これの朝夕
の開け閉めも役目だった。
だから朝は早起き、暗くなるまでに帰らないと、という習慣はこの
頃の躾けになったのか。

このように農家でなくとも子供のやる仕事がたくさんあった。


廊下は無節の檜と母はよく自慢をしていた。

障子は小障子のある雪見障子。










  書院のある床の間。(資料写真)


この昭和初期の文化財(?)を僕は16年前にいとも簡単に壊
してしまったわけだ。

アメリカの映画やテレビ番組などのプロパガンダで頭をやられ
ていた僕には何とも古臭い、使い勝手の悪い家とも感じていた
からだろう。

Unstyle爺のなせる業だ!


しかし、ここ3年くらい前からもう一軒、終の棲家を建てたい意欲に
駆られている。
それも在来の、平屋の家、木々に囲まれる庭が確保できる家を…。

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