2010年7月21日水曜日

ハイボール <エピソード1>。

なんか、焼酎も飽きたなーと思っていたら、
そうだ!いや、SODA!

先日東京に出向いた際にH社の方からお土産で<山崎>の
ハイボール・セットを頂戴したのを思い出し、早速昨晩頂いた。


いまやSODAもプレミアムの時代か。

10年モノの山崎に山崎の天然水でつくったソーダ、そしてハイボ
ール・グラス(こちらはアルミ製ではあるが錫をたたいたような細工
をほどこしてある)のセット。

久しぶりにとても新鮮な酔い心地を感じた。

実は、僕にはハイボールに懐かしい思い出がある。

H社の前の話だが、1975、6年くらいだろうか。
野坂昭如さんのマネージメントもどきなどもやっていて、社で制作を
していた「11PM」か何かの打合せ後、先生が一緒に来い、というこ
となので新橋(土橋)の十仁病院の奥に昨年まであった[ Tony's Bar] へ。

このバーはほんとに小さなビルの地下にあり、奥行き3間くらいのカウン
ターのみ(本当の鰻の寝床、潜水艦)の店で、その中には名だたる洋酒
がビシーッと並んでいて確かそのころ国産ウィスキーはなかったような。
Royalくらいはおいてあったかも知れない。

カウンターの中には物静かなオーナーのアンソニーさんと小柄で初老、
黒い蝶ネクタイに赤いのベストのバーテンダー氏が切り盛りしていた。

そのアンソニーさんも数年前に亡くなり、妹さんのベティさんが細々と
繋いでいたが、遂に御歳で限界。昨年店を閉められた。ずーっとずーっと
足が遠のいていたが、何に呼ばれたか閉店の直前にH社の仲間と訪ね、
その事実を知った。
その時の記念にコースターを。

湘南族の帰り、東海道に乗る時間待ち?の場所でもあった。



10時近くに店に入ると、カウンターの一番奥、どん突きになんと、
開高健大先生がいらっしゃるではないか。
「野坂さん、こっちやー!」と手を振っている。
このどん突きだけに3、4脚のハイチェアが置かれていた。

お二人は仕事の話をされ始めたので会社に電話をかけに表に出た。

しばらくして、戻ると開高先生「あんた、何飲む?」

僕は「ビールでも。」

開高先生「ここへきて、ビールは無粋やでー。これだけスカッチが
あるんやからスカッチ、イキなはれ。」

「はい・・・。」

「わしと同じのにしとき。」

と言って、出されたのが、「スカッチ&ソーダや。ハイボールや。」
「夏はこれも旨い。こんな高い酒を、邪道と言えば邪道やが。」

その時初めてハイボールを知った。

開高先生はそのあと、「ほんとのカクテルのみー。ここのは絶品
やでー!バーバリー・コーストをこのひとに・・・。」
*カサブランカのある北アフリカの回教諸国沿岸がカクテルのネーミング。
 なんと響きのいいネーミングをつけるものだ。
(スコッチ+ホワイトラム+ドライジン+カカオ+生クリーム)

これは本当に衝撃的に旨かった覚えがある。
といってもカクテルなんぞというモノは殆ど知らなかったが。
以来、ほかの店(一流ホテルでも)で頼んでみてもTony'sとは
雲泥、知らない店もあるくらいだった。
さすが、酒神・開高大先生だ。

いまでも、バーに行くと口をついて注文する。

なんやかんや時間は11時過ぎ、野坂先生はひとり銀座へ。
先生はこれからが本番か。

開高先生は東海道線の茅ケ崎、僕はふたつ手前。
終電近い電車にいいご気分の先生と、僕も奮発して一緒に
グリーン車で。

乗って先生は即、高イビキ!それが僕の降車駅でも御休み
である。これでは乗り過ごすと車掌探したがいないので、
お送りすることになった。
茅ケ崎駅でタクシーにお乗せして「運転手さん、開高先生・・・。」
「はい、わかりますよ。」
「ではお願いいたします。」

お宅に着くと、奥さまが玄関までお出迎えに。
「どうもすみません。お住まいは?」{藤沢です。」
{あらー、それではわざわざですか。恐れ入ります。でも毎日の
ことなのでご心配されなくても・・・。車掌さんが分かっていて黙っ
ていても必ず茅ケ崎で起こしてくださるのよ。

なるほどなー、さすが重鎮は違う!
思い知り、どっと汗が吹き出た。


それにしても、いまでは山崎でハイボールか。贅沢になったなー。
大昔はトリスでハイボール、トリ・ハイ・・・それからWHITE。


<エピソード2>はそれから数年後WHITEのことに

つづく・・・

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